Slow Luv op.2 -4-



(10)


 模範演奏を含む一連の予定が終了したのは、午後四時半を回っていた。大学側は更に一席設ける算段をしていたのだが、さく也は承諾しなかった。
「疲れたから」
 思いのほか長くなった拘束時間を考えると――立ち会わなくてもいい、ピアノの調律から居たので――、誰も無理強いは出来ない。残念がる人々は悦嗣に取り成しを頼んだ。しかし自身も疲れていた悦嗣は、「断っていいんだな」と確認するだけに留めた。
 気恥ずかしいくらいの見送りを受けて、悦嗣の車は大学を後にした。
 冬の薄暮は通り過ぎるのが早い。大学を出てどれだけもたたないうちに、辺りはすっかり暗くなった。葉の落ちた街路樹のシルエットが寒々しい。
疲れを理由に帰途についたが、車はさく也の泊まるホテルには直行せずに、市街地に入って食事をした。二人とも、愛想をこれ以上使う気になれなかっただけ、つまり大勢と食事をする気になれなかっただけだったので。
 それからどこに行くとも決めず、車を走らせている。
「時間取って悪かったな。学生アンサンブルまで聴かせて、大学側も遠慮ってものが無え」
「一日空けてたから、気にしてない。音楽を聴くのは嫌いじゃないし」
 聴くことは嫌いではないだろうが、さく也は学生アンサンブルの演奏に、感想らしい感想は述べなかった。
 三回生で構成されたアンサンブルの演奏は、可も無く不可も無く…と言ったところ。中原さく也の演奏の後では、聴き劣りするのは仕方のないことだった。それは本人達も自覚しているらしく、妙な緊張感がある。そして聴く側の学生達と、その師匠達にも伝染していた。悦嗣もまた、その一人だった。緊張感を引き出した張本人のさく也は、いつもの調子で演奏を聴いていた。
 ヨーロッパの音の中に常日頃いる彼の耳に、学生の音はどう聴こえていたのだろう。音が下がっても、演奏が微妙にズレても、表情に何の変化も見えなかった。その様子が新たな緊張を呼んでいた。
 終わった後で感想を聞かれての「楽しめました」は、素っ気ない一言で、さく也のアドバイスを欲しがっていた学生達は、沈黙せざるを得なかった。
「本当に楽しめたんだから、ちゃんと感想だと思うけど」
 その時の周りの反応を思い出したのか、さく也が呟く。食事中に摂ったアルコールが、彼の口を滑らかにしていた。たったコップ二杯のビールで、あきらかに口数は三倍になった。悦嗣は彼を車で送るつもりだったので、唇を湿らせただけで飲まなかった。
「曲がりなりにも音楽学部だから、もっと踏み込んだ言葉が欲しいんだよ」
「そう言うのは苦手なんだ。俺自身、勉強中なんだから。俺の演奏に対しての感想が欲しいくらいだ」
「意外だな。関心なさそうなのに」
「人並みだよ、俺」
 さく也は明日、ウィーンに帰る。何回か演奏会を聴きに行ったことは聞いたが、その他に何かをしたという話はなかった。ずっと海外生活であるとはいえ、「東京近辺は地元」と話していたところをみると、観光をするほど馴染みがないわけではなさそうだった。もしかしたら予定があったのかも知れない。しかし余計な模範演奏会などが入ったものだから、多少は変更したこともあるだろう。
「別に予定を変更したりしなかったけど」
 クリスマスを控えて、とりどりのイリュミネ―ションで飾られた街を抜け、車は湾岸線に入っていた。
「もともと観光が目的じゃなかったし」
「じゃあ、なんでこの時期に? クリスマスなら向こうが本場だろう? 飛行機代だって、一番高い時だし」
「最初の三年は試用期間なんだ。休暇は自由に決められなくなる。それに」
 ライトアップされた橋を珍しげに見ていたさく也は、悦嗣に向き直った。
「会いたかったから」
 すっかり忘れていたことを、その一言で悦嗣は思い出した。
 半年前に示された、さく也の想いの一片。
 この数日はまったく感じなかった。目の前にいた彼は、ヴァイオリニストとしてのさく也であったし。
「…わざわざ?」
 まぬけな質問だ。自分のことがまぬけに思えたのはこれで二度目。一度目は英介の結婚披露宴で、彼への気持ちを自覚した時だった。
「わざわざ」
 さく也は微笑んで答えた。
「だから目的はちゃんと果した。一緒に弾けたし。最初の練習の時にヴォカリーズが遅くなったのは」
 言葉が途切れて、フイッと窓の外に目を戻した。
「…弾き終わりたくなかったから」
 声音は少し下がったが、聞こえないほどではない。
 悦嗣は頬が熱くなる感覚を覚えた。車外を見るさく也の表情はわからない。しかし自分はあきらかに赤面していることがわかった。
 会話が途切れるバツの悪さを取り繕うために、悦嗣は話を継いだ。
「俺は引き摺られて大変だった。楽しむ余裕なんかなかったさ。思えば、中原さく也の音をじっくり聴いたことがないな、弾くのに精一杯で。気を抜いたら、指が止まりそうになる。おまえと演る時は、真剣勝負みたいなもんだ」
「俺の演奏を聴きたいのか?」
 振り返らずにさく也が言った。声の調子は戻っている。
「聴きたいね。だから一曲は無伴奏を入れて欲しかった」
「どこか、車を止められる? 道路傍じゃなく、少しは静かなところがいいけど」
「えっと…」
「あそこは出口じゃないのか?」
 さく也が指差す前方に、ジャンクションを示す標識が見えた。悦嗣は促されるまま左の車線に入った。




(11)


中原さく也の音を聴いたよ
 冒頭の一言で、悦嗣のキーボードを打つ指は動きを止めた。指先が思い出して震えたのだ。中原さく也というヴァイオリニストの音を思い出して。右手で左手の拳を包み、グッと力を入れた。
 そのヴァイオリンのために用意されたステージは、海辺りの広場。防風とアラ隠し――眼前が古い埠頭だったので――の植樹のおかげで、ライトアップされた橋の姿が遮られ、夜景を楽しむには不向きな場所だった。もう少し進めば繁華なアミューズメント・エリアなので、人の流れは大抵そちらに向かう。だから人気と言えば、犬の散歩をする人くらいだった。
 しん…と空気は澄んでいた。月の白さが際立って、ライトのかわりに辺りを晧晧と照らしていた。
 奏者は一人。観客も一人。
――シャコンヌだ…
 冷気を裂いて、音が翔ける。
 闇に吸い込まれることなく、風にざわめく枯れ枝の、乾いた音をものともしない。すべての音をかき消して、それ以外の存在を許さないかのように、次々と変形し変容する『シャコンヌ』 
何度も何度も繰り返される第一主題、多用される重音。ヴァイオリンという楽器の感情の高まりは、それらによって極限まで表現される。
 音は生まれた瞬間から旋律を創り、『楽』と成って、聴くものの耳を支配した。
 悦嗣は我知らず身震いした。寒さからではない。中原さく也の演奏に、体が反応したのである。
 全身が耳となって、その音を受け止めていた。
押さえつけられて動けない。そんな感じだった
 あの十五分を文章に出来ない。元々文才の無い悦嗣なのだが、どんな表現も陳腐に思えて、更に語彙を貧困にしていた。
 イスの背にもたれて、煙草に火を点けた。




 弓が最後の音を奏でて、『シャコンヌ』が終わっても、余韻が悦嗣を縛った。目の前にさく也が立って、初めて曲の終わりを知り、忘れていた冷気が体を包んだ。
「聴いた?」
 さく也の口元に白い息が漏れた。
「聴いた」
 言い知れぬ敗北感を、悦嗣は感じていた。感想は言葉にならなかった。
――俺は…、どうして悔しいんだ?
 それは車中にあっても、しばらく拭えなかった。
 楽器の違いはあっても、差は歴然だ。感嘆より先に立つものなどあるはずはないのに、悦嗣の心中はその感情に囚われて、口元は引き結んだままだった。大人気ないとは思った。「ありがとう」の一言も出ない。ただ黙って、ハンドルを握ることしか出来なかった。
 悔しいのは――中原さく也に対してではない。自分自身に対して悔しいのだ。なぜ、自分は聴くことしか出来ないのだろう? なぜ彼のように弾けないのだろう? なぜ、今になって自分は……。
 奇妙な沈黙。悦嗣は視界の隅で助手席のさく也を見る。目は閉じられ、頭が悦嗣寄りに少し傾いでいた。心持ち開いた唇の様子に、幼さが残っている。結局、宿泊先のホテルが近くなり、悦嗣が声をかけるまで、さく也は起きなかった。
 車を路肩に止め、二人は外に降り立った。後部座席から楽器を取り出すさく也に、
「…『シャコンヌ』、ありがとう」
と、悦嗣が言った。心を占めていたものは、幾分、払拭されていた。
 さく也は悦嗣を見つめた。
「あんたが忘れないように弾いたんだ」
 うたた寝でアルコールが抜けたのか、さく也の声はいつもの調子に戻っていた。
「次に会うまで、俺のことを忘れないように。『帰国』と言ったら、エースケだけじゃなく、俺のことも思い浮かべるように」
 さく也のヴァイオリンとその演奏を聴いた後で沸いた感情。彼の思惑通り自分はきっと忘れない。 忘れられない…と悦嗣は心の中で肯定した。
 見透かされたのかと思った。
「案外、根に持つほうなんだな。今度はちゃんと覚えとくさ」
 だから努めて平静を装う。
「うん」
と答えたさく也は、肩からヴァイオリン・ケースを下げてホテルの方向に体を向けた。
「でも、あんたが覚えていてくれるのは、きっと音だけだ」
「中原?」
「ヴァイオリニストとしての俺を、ピアニストとして見ている」
 ヒュッと風が走った。
「それでもかまわないけど」
 頬にかかった髪を払いのけ、さく也は一歩踏み出した。前回の空港同様、振り返らなかった。




 メールの文面は止まったまま。さく也のヴァイオリンについて書き連ねたところで、悦嗣のなけなしの文章力は使い果たされてしまった。感情的とも言える文面は、ただそのことだけに終始している。今更、他の事柄をくっつける気にはなれなかった。
 煙草の煙を天井に向かって吐き出す。目は形の成さない紫煙を暫く追った。耳は『シャコンヌ』をリバースする。間にさく也の、別れ際の言葉を挟みながら。
 確かにあの弓が創りだす音楽に惹かれている。しかしさく也が時折り示す素直な想いは、応える術を持たない悦嗣を戸惑わせた。そして抑えることしか出来ない英介への想いを、刺激するのだ。
 〆の一文もつけないまま、送信をクリックした。メールは一瞬でいくつもの国境を越えて、英介のもとに届くだろう。支離滅裂で尻切れトンボな文面を見て、彼が微笑む様が想像出来た。
「エースケ、おまえは今ごろ何してんだ?」
 画面に浮んだ送信完了の文字に向かって、話し掛ける。
 英介の奏でるやわらかなチェロの音色が、聴こえた気がした。長い一日の終わりに、疲労感が押し寄せた悦嗣の気持ちを和ませる。
 とにかく今日はもう寝よう。英介の音色が耳にあるうちに――PCの電源を落とし、ベットに倒れ込んだ。その時、音は再び、中原さく也の『シャコンヌ』に変わっていた。悦嗣はもう一度英介のチェロをイメージしたが、戻って来なかった。長く息を吐いた後、あきらめて目を閉じる。
 眠りに入るその瞬間まで、『シャコンヌ』は途切れることはなかった。


                                          Op.2 end



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